易経、易占関係の出来事を、中国史、日本史を中心にまとめています。作成中です。どんどん追加していきます。
●は著名な易占です
◇は易経を典拠とする日本の元号
中国 | 日本 | ||
中国の歴史 「殷」落合淳思著(中公新書)/「古代中国」貝塚茂樹著(講談社学術文庫) |
中国の易の歴史 | ||
【神話伝説時代】 三皇と呼ばれる聖人が世を修めた時代 |
伏羲(ふっき)/包犧:中国古代神話の帝王。頭は人間で体は蛇であった。 ①八卦や文字を発明し結婚の制度を作った。 ②メドキを用いて卦を立てる方法を作った ⓷縄を結び付けて網を作り出す知恵を編み出し、民に教える。これにより獣を狩で仕留め、魚を採る方法を教えた。 |
①繫辞(けいじ)上伝2章「聖人卦を設けて」。繋辞下伝「古者[いにしえ]包犧氏の天下に王たるや、仰げば則ち象を天に觀、俯しては則ち法を地に觀、鳥獸の文と地の宜とを觀、近くは諸を身に取り、遠くは諸を物に取る。是に於て始めて八卦を作り、以て神明の德を通じ、以て萬物の情を類す。」 ②説卦伝1章「昔者[むかし]聖人の易を作るや、神明を幽贊して蓍を生ず。天を參にし地を兩にして數を倚[た]つ。變を陰陽に觀て卦を立て、剛柔を發揮して爻を生じ、道德に和順して義を理[おさ]め、理を窮め性を盡くして以て命に至る。」 説卦伝2章「昔者聖人の易を作るや、將に以て性命の理に順わんとす。是を以て天の道を立つ、曰く陰と陽、と。地の道を立つ、曰く柔と剛、と。人の道を立つ、曰く仁と義、と。三才を兼ねて之を兩にす。故に易は六畫にして卦を成す。陰を分かち陽を分かち、迭[たが]いに柔剛を用う。故に易は六位にして章を成す。」 ③繋辞下伝「結繩を作して網罟[もうこ]を爲り、以て佃[かり]し以て漁[すなど]るは、蓋し諸を離に取る。」 |
縄文時代
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女媧(じょか):中国古代神話の帝王。頭は人間で体は蛇であった。 ※後漢時代の墓の画像石には、伏犠と女媧が夫婦として描かれ、兄妹でもあり、兄妹の神が夫婦として人間を生み出したと考えられていたらしい。 |
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神農(しんのう):中国古代神話の帝王。姿については、頭は牛で体は人間であったと伝えられる。 ①農耕を伝えた ②医薬を伝えた ⓷商業を伝えた
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①繋辞下伝「包犧氏沒して、神農氏作る。木を斲[き]りて耜[し]と爲し、木を揉[た]めて耒[らい]と爲し、耒耨[らいどう]の利、以て天下に敎うるは、蓋し諸を益に取る。」(「風雷益」から、木から鋤を作る方法を教え、鋤で草を切り耕す便利を民に教えた。この頃には鉄はなく、木を鋭く削って鋤の頭とし、木の棒を撓めて鋤の柄とした。風雷益の2つの陽爻は柄の取っ手に、中間の3つの陰爻は柄の曲がった部分に、下の1陽は鋤の頭に相当する。風雷益の上卦「風」は入るの徳をもち、下卦「雷」は動くの徳を持つ。つまり、桑が動いて土に入るの象を持つ。) ⓷繋辞下伝「日中に市を爲して、天下の民を致し、天下の貨を聚め、交易して退き、各々其の所を得るは、蓋し諸を噬嗑に取る。 |
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BC6000年頃 |
BC6000年頃 各地で新石器文化が出現。農耕や牧畜、土器や竪穴住居の技術が広まる
BC3000年頃 墓の副葬品に大きな格差がみられるようになった。 |
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【神話伝説時代】 五帝と呼ばれる聖人が世を修めた時代(誰をもって五帝とするかは説が分かれますが、史記の分類に従う)
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黄帝(こうてい):神農の子孫が天下を治めていたが、世を鎮めることができなかったので、従わない者を討伐し、その後諸侯の人望を集めて位についた。史記は黄帝の記述から始まる。中国の帝王(四帝、夏王朝、殷王朝、周王朝、始皇帝など)も黄帝の末裔とされる。 |
・神農氏沒して、黄帝堯舜氏作る。其の變を通じ、民をして倦まざらしめ、神にして之を化し、民をして之を宜しくせしむ。易は窮まれば則ち變じ、變ずれば則ち通じ、通ずれば則ち久し。是を以て天より之を祐け、吉にして利ろしからざること无し(・行き詰まった生活様式を変えるような方向に道を開通し、民が倦怠するとのないようにした(繋辞下伝2章) ・黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る。木を刳[く]りて舟と爲し、木を剡[けず]りて楫と爲し、舟楫の利、以て通ぜざるを濟[わた]し、遠きを致して以て天下を利するは、蓋し諸を渙に取る。牛を服し馬に乘り、重きを引き遠きを致して、以て天下を利するは、蓋し諸を隨に取る。重門擊柝、以て暴客を待つは、蓋し諸を豫に取る。木を斷[き]りて杵と爲し、地を掘りて臼と爲し、臼杵[きゅうしょ]の利、萬民以て濟[すく]うは、蓋し諸を小過に取る。木に弦[つる]して弧[ゆみ]と爲し、木を剡りて矢と爲し、弧矢の利、以て天下を威すは、蓋し諸を睽に取る(繋辞下伝2章)。 ・上古は穴居して野處す。後世の聖人之を易うるに宮室を以てし、棟を上にし宇[のき]を下にし、以て風雨を待つは、蓋し諸を大壯に取る。古の葬る者は、厚く之に衣するに薪を以てし、之を中野に葬り、封ぜず樹せず、喪期數无し。後世の聖人之を易うるに棺槨を以てするは、蓋し諸を大過に取る。上古は結繩して治まる。後世の聖人之を易うるに書契を以てし、百官以て治め、萬民以て察らかなるは、蓋し諸を夬に取る(繋辞下伝2章)。 |
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顓頊(せんぎょく):黄帝の孫。生まれつき聖徳があったため、黄帝が崩御したのち位についた。 | 易経には記載なし | ||
嚳(こく):黄帝の曾孫。顓頊(せんぎょく)の従兄弟の子。生まれつき神霊で徳があった。 | 易経には記載なし | ||
堯:嚳(こく)の次男。丹朱、共工という子供がいたが出来が悪いため、貧しい平民の舜に天下を譲った(*) | *物事をやりすぎてしかるべき非常の時間、大過のとき(朱子語類) | ||
・舜: | |||
夏(BC23世紀~BC18世紀) |
・禹:九牧(九つの州の長官)の金(青銅)を集めて作った9つの鼎があり、これを王位伝承の宝器として後代に伝えた ・。
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殷 (BC18世紀~BC12世紀)
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・湯王:賢臣の伊尹(いいん)を宰相として政治を委ねたが自らも徳を備えた人物であったと伝えられる。 殷の湯王が野に出て禽獣を狩るとき、網を四面のうち3面を取り去って過度の殺伐を避けるようにした。
夏の桀王を滅ぼして殷を建国(*) 国の大事を決定するのに占いに頼った。亀の甲羅を焼いてひび割れのカタチで吉凶を占う。
※殷の天子は誕生日の干支を名乗った(本田濟「易」138頁)
BC14世紀頃 9人の王にわたって王室内部の継承紛争が生じたが、高宗(武丁)が混乱を終息させる。
・高宗(武丁) 統一後、各地の敵対勢力の討伐を行う。 -北西にある方国の討伐(甲骨文字記述500例) -土法の討伐(甲骨文字記述150例) -鬼方の討伐(甲骨文字記述10例) -周は、当初は殷に従わなかったため高宗(武丁)が服属を迫り、殷に服属する一つの有力な邑となる。
・周の古公亶父(ここうたんぽ)/太王(文王の祖父)、異民族の侵略から逃れるために一族を連れて漆水・沮水という川のほとりにあった邑である豳(ひん)の地から、後の周の都の付近である岐山の麓に逃れる。 |
水地比5爻「比を顯らかにす。王用て三驅して前禽を失う。邑人誡めず。吉なり。」
*沢風大過。物事をやりすぎてしかるべき非常の時間、大過のとき(朱子語類) *地火明夷3爻「明夷、南に狩して、其の大首を得。疾く貞しくす可からず」
水火既済3爻「高宗鬼方を伐ち、三年にして之に克つ。」
・沢雷随上爻「之を拘[とど]め係[くく]る。乃ち從いて之を維[つな]ぐ。王用[もっ]て西山に亨る。」はこの時のことをいう(宋の程氏の見解) |
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帝乙(ていいつ):29代王。紂王(帝辛)の父。甲骨文字に記載がなく、周の資料に頻繁に出ているため、落合淳思教授は、周王朝が殷の人を管理するため架空の王を創作したとの説を主張されています。 |
地天泰5爻「帝乙妹を歸[とつ]がしむ。祉[さいわい]を以てす、元吉。」 雷沢帰妹5爻「帝乙[ていいつ]妹を歸がしむ。」 |
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紂王/帝辛(最後の王) BC11世紀頃 ・周の文王、九侯、鄂侯が、三公として紂王を補佐していた。しかし、九侯、鄂侯が紂王の不興を買って酷刑に処される(肉体を切り刻まれて塩漬け肉や干し肉にされる)という事件が起きた。この事件を受けて周の文王は嘆息したが、そのことが崇侯虎に讒言されてしまう。讒言を受けた紂王によって、周の文王は羑里の地に幽閉される。
・周の文王死去。文王の子(周の武王)が、太公望や弟の周公旦を左右に父の事業の継承に励む。
・紂王の乱行 紂王の腹違いの兄、たびたび諫めても紂王が聞く耳を持たないので、殷を去る。 比干は命がけで紂王を諫めるが、却って紂王の怒りを買い殺された。
紂王の異母兄である箕子は、初めは紂を諫めたが聴き入れられない。人は亡命をすすめたが、断り、気違いをよそおい奴僕となったが、紂王は箕子をとらえた。
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・繋辞下伝6章「子曰く、乾坤は其れ易の門か。乾は陽物なり。坤は陰物なり。陰陽德を合わせて剛柔體有り、以て天地の撰[こと]を體し、以て神明の德に通ず。其の名を稱すること雜なれども越えず。於[ああ]其の類を稽[かんが]うるに、其れ衰世の意か。
夫れ易は往を彰らかにして來を察し、顯を微にして幽を闡[ひら]く。開いて名に當て物を辨え、言を正しくし辭を斷ずれば則ち備わる。其の名を稱するや小にして、其の類を取るや大なり。其の旨遠く、其の辭文[かざ]る。其の言曲にして中り、其の事肆[つらな]りて隱[かく]る。貳に因りて以て民の行を濟[すく]い、以て失得の報を明らかにす」 ・繋辞下伝7章「易の興るや、其れ中古に於てするか。易を作る者は、其れ憂患有るか。」 ・繋辞下伝11章「易の興るや、其れ殷の末世、周の盛德に當たるか。文王と紂との事に當たるか。この故にその辞は危うし。危ぶむ者は平かならしめ、易[あなど]る者は傾かしむ。其道甚だ大にして、百物廢れず。懼れて以て終始すれば、其の要は咎无し。此を之れ易の道と謂うなり。」
周の文王、殷の暴君である紂王によって、羑里の地に幽閉される。 ・乾為天初爻「初九は、潜竜なり。用いられることなし」はこの時のことをいう(晋の干宝の見解) ・沢雷随上爻「之を拘[とど]め係[くく]る。乃ち從いて之を維[つな]ぐ。王用[もっ]て西山に亨す。」はこの時のことをいう(宋の張根の見解) ・地風升4爻「王用[もっ]て西山に亨す。吉にして咎はなし」はこの時のことをいう
その際に、文王は易経の卦辞を作る。 ・繋辞上伝2章「聖人・・・象を觀、辭を繫けて吉凶を明らかにす。」 ・風天小畜「小畜は、亨る。密雲あれど雨ふらず。我が西郊よりす。」 ・天沢履「虎の尾を履むも、人を咥[くら]わず。亨る」
周の文王の家来が、美人や珍しいもの、善馬を紂王に献上し、周の文王は釈放される。 ・乾為天二爻「九二は、見竜田にあり。大人を見るに利あり」はこの時のことをいう(晋の干宝の見解)
周の文王は国に帰り密かに徳を修め善政をしいた。 ・乾為天三爻「九三は、君子終日乾乾、夕べまで惕若たり。厲[あや]うけれども咎无[な]し。」はこの時のことをいう(晋の干宝の見解) ・地火明夷彖伝「明の地中に入るは、明夷なり。内文明にして外柔順、以て大難を蒙る。文王之を以てす」 内心英知に富み他人に従順な人。周の文王はまさにそのような人であった。明智を隠して暴君の紂に従順に仕え、羑里に囚われるというひどい難儀を被りながら身を全うした。 ・水火既済5爻「東鄰に牛を殺すは、西鄰の禴祭[やくさい]如かず。實に其の福を受く。」東の都で天下の王である紂が驕りに耽っているのは、西伯の文王が小国ながら民心を得つつあるに及ばない |
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周の武王が東征し、盟津(河南 孟津渡)に来ると、殷に叛こうとする諸侯が800騎と会う。諸侯はみな「紂は討たなければならないといった。しかし、武王は「お前たちはまだ天命を知らない」といって引き返した。 ・乾為天四爻「九四は、或は躍りて淵に在り。咎无し」はこの時のことをいう(晋の干宝の見解)
・地火明夷彖伝「艱貞に利ありは、其の明を晦ますなり。内難あって能く其の志を正す。箕子之を以てす」
自分の明智を包み隠すがよい。内難とは、暴君の身内のことであり、国内にいるという難儀。 箕子は、狂人のふりをして、知恵を隠し志を守り通した。
地火明夷5爻「箕子の明夷る」 |
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西周 (BC11世紀~BC770)
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BC1027 牧野の戦いで、武王は紂王を破り、殷王朝を滅亡させる(*)。
BC1023 都を鎬京(現在の西安付近)に置き、周の武王が天子となる(ここに都がある時代を西周という)
武王は、すぐには周の命を行わず箕子を許すなど3つの宣撫工作を行った(*)。 政治知識や技術的な知識は殷王朝の人達が持っていたため、殷王朝の中心地に近い西周にも副都を建設し、前王朝の人々を管理支配した。
康叔:文王の九男で武王の同母弟。衛の初代君主となったため衛康叔とも呼ばれる。
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*沢風大過。物事をやりすぎてしかるべき非常の時間、大過のとき(朱子語類) *地火明夷3爻「明夷、南に狩して、其の大首を得。疾く貞しくす可からず」
周の武王、紂王を討って位につく。紂王は滅亡する。 ・乾為天五爻「九五は、飛龍天に在り。大人を見るに利ろし。」はこの時のことをいう(晋の干宝の見解) ・坤為地上爻「上六は、竜野に戦う。その血玄黄」はこの時のことをいう(晋の干宝の見解)
*沢火革3爻「革言三就」
周公旦、爻辞を作る。 ・繋辞上伝2章「聖人・・・象を觀、辭を繫けて吉凶を明らかにす。」
火地晋「晉は、康侯用[もっ]て馬を錫うこと蕃庶たり。晝日に三たび接じわる。」 卦辞を作ったのは文公とされるため、ここでいう康叔は固有名詞ではなく普通名詞と解釈されている。 |
中国 |
日本 | |||
中国の歴史 「論語」加地伸行著(講談社学術文庫) |
中国の易の歴史 | |||
春秋時代(BC770~BC403)
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BC770 西北から侵入した犬戎(現在のチベット系といわれる)によって都の鎬京が攻略されたため、都を洛邑(現在の洛陽)に遷都(「周の東遷」)。以後、東周という。 以後、戦乱が生じる。 ただ、戦乱の世にあっても周王の権威は残っており有力諸侯は、周王の権威を利用し異民族を打ち払う(「尊王攘夷」)をスローガンに勢力を拡大していた。この時代を春秋時代という。 |
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隠公(紀元前722年 - 紀元前712年) |
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桓公(紀元前711年 - 紀元前694年) | ●BC710 宋の国の大宰(国政を統括する重臣)である華父督(かほとく)から、魯国の桓公に、贈答品が送られてくる。 | |||
荘公(紀元前693年 - 紀元前662年) |
●BC672 陳の君主宣公が寵愛する公子款を太子の座につけるために禦寇を暗殺。禦寇の仲間であった敬仲は斉国へ逃げる。敬仲の運勢 |
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閔公(紀元前661年 - 紀元前660年) |
●BC661 畢萬の仕官 △ ●BC660 成季の身命に関する占△ |
BC660 神武天皇が南九州から東方に移住し、大和の橿原の宮で即位して初代天皇となる。 |
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僖公(紀元前659年 - 紀元前627年) |
●BC637 重耳の済河 △ △重耳の入国 △周の襄王の復位
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文公(紀元前626年 - 紀元前609年) | ||||
宣公(紀元前608年 - 紀元前591年) |
●BC602 伯廖が曼満の貪欲を考察した予見△ ●BC597 荀首が晋軍の敗戦を先見した予断△ |
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成公(紀元前590年 - 紀元前573年) | ●BC575 鄢陵(えんりょ)の戦い△ | |||
襄公(紀元前572年 - 紀元前542年) | BC552孔子、魯国の昌平郷に生まれる。 |
△晋の悼公の立君 ● BC564 穆姜(ぼくきょう)死去。穆姜の東宮幽閉占 ●BC548 斉国の大夫 崔杼が主君の荘公を弑君△ ●BC545 子大叔が楚の康王の死を予言△ |
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昭公(紀元前541年 - 紀元前510年) |
BC538孔子、15才。学に志す。 BC536孔子、17才。魯国の重臣の季氏が人材を求めたので応じたが、季の重臣の陽貨に追い出される。 BC534孔子、19才、結婚。 BC533孔子、20才。魯国の下級役人となる。 BC523孔子、30才。三十にして立つ。 BC518孔子。35才。周の都に行き老子に礼を学ぶ。 BC513孔子、40才。四十にして惑わず |
●BC537年 叔孫昭子が家臣の牛を殺害。それと関連し、叔孫昭子の父、叔孫豹の生涯について卜楚丘の占。 △元を衛の国君に立てる |
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定公(紀元前509年 - 紀元前495年) |
BC505孔子、48才。弟子が増える。 BC503孔子、50才。五十にして天命を知る BC501孔子、52才。魯国の中都の長官となる。 BC498孔子、55才。魯国の大司寇(公安、警察担当長官)となり定公の右腕となる。しかし、失脚し15年にわたる諸国放浪となる。多くの弟子が従う。 |
孔子、晩年(50歳)に易を好み易経十翼を書く。「子曰く。我に数年を加し、五十にして易を学べば、以て大過なかるべし」(論語述而第七)
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哀公(紀元前494年 - 紀元前468年) |
BC493孔子、60才。六十にして耳順たがう。
BC484孔子、69才。魯国に帰国し、学問教育に専念する。 BC481年、敬仲の子孫 田恒(でんこう 陳成子)、斉国の実権を握る。 孔子の弟子の顔淵没。 BC479孔子、74才没 |
●BC486 晋の大夫 趙鞅、鄭の救援依頼を中止△ | ||
戦国時代(BC403~BC221) |
BC403 中原の強国「晋」が、家臣により国を奪われ韓・魏・趙の3国に分割。以降、下剋上の風潮が高まり、社会がますます混乱する。 晋から分割した韓・魏・趙のほか、従前からの田斉、秦、燕、楚の七国(戦国七雄)だけが残り覇を争う時代となる。 BC221年の秦による中国統一までの、この時代を戦国時代という。
BC391 敬仲の10代孫の田和(太公)。斉の君主を追放し、自ら斉公を名乗る。 BC386年 太公は、周の安王により諸侯に列せられ、斉の君主となる。 |
鄒衍(BC305-240):陰陽家。 |
中国 | 日本 | ||||
中国の歴史 |
中国の易の歴史 | 日本の歴史 | 日本の易の歴史 | ||
秦(BC221~BC206) |
BC221 秦による中国統一 BC213~212 焚書坑儒。丞相の李斯は、儒者たちが、古によって体制を批判していると指摘し、弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて、医薬・卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定した。 |
易は卜筮の書であることから、焚書坑儒から逃れた。 |
弥生 時代 |
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前漢(BC202~AD8) |
BC202 沛の庶民の劉邦と楚の貴族の項羽の争いの結果、劉邦が勝ち中国を統一。 春秋戦国時代に各地で多彩な発展をとげた中国文化を全国的に統合する役割を果たした。 前漢の当初は、法家や道家の思想が有力であったが、武帝のとき、董仲舒の提案で、礼と徳を重んじる儒学が統一国家を支えるにふさわしいとして官学とされた。 中央の太学には五経博士が置かれ五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)が講義された。 宮廷内部で外戚や宦官の専横により政治が混乱。 BC104。太史令の司馬遷、史記の執筆に着手。 AD8 外戚の王莽が儒教を巧みに利用して帝位を簒奪し、新を建国。 |
BC78~BC37 京房 災異に詳しく、易の六十四卦を一年間に割り当て、日々に起こる事を予言した。
漢易・象数易 卦の象や数を重んじる解法に特徴がある。漢より後の時代でも同様の解法をとるものは「漢易」に含む |
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後漢(AD25~AD220) |
新を建国した王莽は、儒教に基づいて周の時代を理想とする、極端な復古主義に基づいた政治を行ったが、社会の実情に合わずに農民の反乱(赤眉の乱)そのほかの反乱でAD23に滅亡。 AD25 漢の一族である光武帝により後漢が復興。都を洛陽においた。 AD184 黄巾の乱を契機に各地で反乱が続発 AD215 魏の曹操・蜀の劉備・呉の孫権による三国鼎立のカタチが固まる。 AD220 魏の曹丕(曹操の長男)が漢の皇帝献帝から禅譲を受け、都を洛陽とした、後漢滅亡。 |
AD121 許慎(30~124)が古典を読むために必要な「説文解字」という字典を作成
AD127-200 鄭玄(じょうげん) |
AD57 北九州の奴国の使者が洛陽に赴き、光武帝から印綬「漢委奴国王印」を与えられる。 | ||
三国時代(AD220~AD280) |
魏の建国に伴い、蜀(劉備)・呉(孫権)が建国
貴族の間に現実から逃避し、精神の自由を重んじる傾向が強くなり、無為自然を説く老荘思想が流行る 竹林の七賢の清談。 |
王弼(226年 - 249年)魏の政治家・学者。「周易注」(易の注釈)を作成。漢易の煩瑣な解法を切り捨て、できるだけ孔子の十翼だけで解釈しようと努める。 | AD239 倭の女王卑弥呼が魏に使者を送る。魏の明帝は卑弥呼に親魏倭王に封じ、金印紫綬を授ける。 |
中国 | 日本 | ||||
中国の歴史 |
中国の易の歴史 | 日本の歴史 | 日本の易の歴史 | ||
西晋(265-316) |
513 朝鮮の百済の武寧王は、大和朝廷に対して、五経博士として段楊爾を派遣 →日本への儒学の伝来とされる。 |
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東晋(317-420) | 干宝(320ころ在官)の易 | ||||
南北朝時代 | |||||
隋(581~618) |
・中国を統一した隋の文帝(楊堅)は、世襲的な貴族の優先権を一切認めず、中央と地方の官僚を門閥にとらわれずに人材を登用することを目指し、九品中正を廃止して、学科試験による官吏登用法「選挙」を開始する(のちに科挙と称される) |
飛鳥時代 |
607 聖徳太子、小野妹子を遣隋使として派遣 681 天武天皇が日本書紀の編纂を命じる |
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唐(618~907) |
儒学の分野では、これまでおこなわれた諸解釈(訓詁学)を整理して統一しようという機運が起こる。 640 太宗の指示を受け孔穎達編纂により「五経正義」が作成される。この本は、公式解釈となる。科挙のテキストとして尊重された。『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』の五経の疏。 659 二代目太宗が編纂を命じた歴史書「北史」「南史」完成。鮮卑出身の唐の正統性を確保するため、南北朝の両方の歴史を記載。 |
「周易」の底本としては、王弼注・韓康伯注 | 奈良時代 |
712 太安万侶が古事記を編纂し、元明天皇に献上。 720 日本書紀30巻完成 |
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五代十国(907~979) | |||||
北宋(960~1127) |
960年趙匡胤、皇帝に即位 徹底した文治政治による皇君主独裁体制の確立 1004年遼との間に澶淵の盟を締結 ↓ 官僚の増大、異民族への外交費用、軍事費の増大 ↓ 神宗(1067-1085) 王安石を登用し、財政危機の打開のための改革(新法)実施 ↓ 保守派官僚(旧法党:司馬光、蘇軾)による反発があり、激しい党派抗争となる
哲宗(1085-1100) 司馬光は、程頤を哲宗の侍講に推挙 司馬光死去(1086年)後に 旧法党内での争い勃発。程頤は、蘇軾やその門下生と争い、朝廷を追われた。
皇帝の権力が強くなる一方、貴族階級が消滅し平民が台頭し商業が盛んとなる。内藤湖南博士は以降を近世、以前を中世と分類。
徽宗(1100-1126) 芸術家で新法党の蔡京を起用。汚職や増税が蔓延り民衆の反乱が多発。1120年の方臘の乱という農民の大反乱がおこる(水滸伝は、この反乱をテーマに執筆される) |
蘇軾、易の解説書を作成
1033~1107年 程 頤(てい い、程伊川)。蘇軾やその門下生と争い、朝廷を追われたときに「伊川易伝」(「程氏易伝」「程伝」)を執筆 |
平安時代 | ||
南宋(1127~1279) |
1127 宋室南遷都
1279 元、南宋を滅ぼす |
1130~1200年 朱熹(朱子) 「周易本義務」 |
鎌倉時代 | ||
元(1271~1368) | 1271 フビライ、国号を元と称す。 | 元の国号は、乾為天の彖伝「大いなるかな乾元、万物資りて始む」に基づく。歴代王朝は、歴代皇帝が皇帝になる前の封地から国号を取ったが、はじめて古典から国号をとった。 |
◇正慶(1332-)風雷益「利レ有レ攸レ往、中正有レ慶」の注釈「周易注疏」に「以二中正有慶之徳一、有レ攸レ往也、何適而不レ利哉」 ◇貞治(1362-)「武人の貞に利あるは、志治まる也」(巽為風 初爻 象伝) |
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明(1368~1644) |
1368 元が滅び、明建国
1644 清軍入関、李自成敗れ、明滅ぶ。 |
室町時代 |
1432年、上杉憲実が足利学校に、鎌倉円覚寺の僧快元を能化(校長)に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。教育の中心は儒学であったが、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が増加。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあった。 ◇嘉吉(1441-)「嘉に孚あり、吉とは、位正中なればなり。」(沢雷随 5爻 小象) ◇文明(1469-)「文明以て健、中正にして応ず、君子の正也」(天火同人 彖辞) ◇明応(1492-) 「その徳剛健にして文明、天に応じて時に行く」(火天大有 彖辞) ◇享禄(1528-) 「居天位享天禄」 易経のどこから引用しているか調査中です |
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織豊時代 | 1600 関ヶ原の戦い |
1600 足利学校第9世の庠主(校長)三要元佶、関ヶ原の戦いの際に徳川家康の陣中に随行し、占筮によって功績をたてる。 |
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清(1644~1912) | 1912 孫文、臨時大統領就任。宣統帝退位。清国滅ぶ。 |
●1871 イリ事件。新彊(東トルキスタン)イスラム教徒の反乱をきっかけにロシアと清国の紛争。高島嘉右衛門占。
1882 朝鮮の旗 太極旗が作られる。
●1883 清仏戦争。高島嘉右衛門占 |
江戸 |
5代将軍 徳川綱吉(1680~1709)
1790 「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として昌平坂学問書を神田湯島に設立 |
◇慶安(1648-)「乃ち終に慶びあるなり、安貞之吉は、地の無疆なるに応ず」(坤為地 彖辞) ◇貞享(1684-)「永貞なれば吉なり、王用って帝に享す、吉。」(風雷益2爻) 1693~1700 徳川綱吉240回にわたり、周易(易経)の講義を実施。テキストは朱熹の「周易本義」 1715 新井白蛾誕生。儒学者。当時儒学者に卑しめられていた占筮を朱子学の基礎理論に立脚し一派を確立した。略筮法。 1754 真勢中洲誕生。 1792 新井白蛾没 ◇文化(1804-)「天文を観て、以て時の変を察し、人文を観て、以て天下を化成す」(山火賁 彖伝) 1817 真勢中洲没 1832 高島嘉右衛門誕生 1855 安政の大地震 1860 高島嘉右衛門入牢 ◇元治(1864-)「乾元用九は、天下治まる也」(文言伝第3節) ●1864 佐久間象山没(死期占:佐久間象山) 1865 高島嘉右衛門釈放 |
明治 |
◇明治(1867-) 「離とは明なり。・・・聖人南面して天下に聽き、明に嚮[む]かいて治むる。」(説卦伝 5章) 1872 足利学校廃校 ●1882 壬午政変。高島嘉右衛門占、①成り行き。②日本と朝鮮との談判の成り行き。⓷日本と清国との関係。 ●1884 甲申事変 1889 高島嘉右衛門著「高島易断」 1907 加藤大岳誕生 ●1909 伊藤博文暗殺(死期占:高島嘉右衛門) 1910 先哲遺著 漢籍国字解全書第3巻 易経上経・易学啓蒙・易学階梯 |
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中華民国(1912~1949) | 1949 人民解放軍、中国全土を解放。蒋介石は台湾に逃れる。 | 大正 |
◇大正(1912-)「大いに亨るに正を以てす、天の道なり」(地沢臨 彖伝) 1914 高島嘉右衛門没 |
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昭和 |
1935 「易学通変」、「易学病占」紀元書房 1937 「易経」岩波文庫、高田真治
1938-1941 「易経大講座(全8巻)」汎日本易学協会編 紀元書房 |
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中華人民共和国(1949~) | 1973~1976 文化大革命「批林批孔運動」林彪と孔子及び儒教を否定し、徹底的に罵倒した。 |
1954-1958 「周易講話」1-28 公田会公田連太郎。 1958-1959 「易経講話」全5巻 明徳出版社 1961 「易入門」光文社 黄小娥 1966 「新訂中国古典選 1 易」朝日新聞社、本田濟 1966 「今氏易学氏」今東光著 1967 「春秋左伝占話考」紀元書房。加藤大岳 1978 「易」朝日文庫・中国古典選(上下)本田濟 1983 加藤大岳没 1986 現代易入門 井田成明 |
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平成 |
1997 「易」朝日選書・中国古典選 本田濟 1978年「易」朝日文庫の拡大版 2004 「黄小娥の易入門」サンマーク出版 2006~2007 「易経講座」(上下)斯文会 本田濟 2018年3月 山口ついで、ありがたCafeにて、占い師デビュー 2019年1月 占い処「たまる」出店 |
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令和 |
2020年4月 山口ついで、ココナラ デビュー 2021年11月 「山口ついで★易の学校」ストアカにて開講 |
<2019/6/23>
占いサイト・ココスピに【山口序(やまぐち ついで)インタビュー記事】「具体的な解決策を示すこと」を大切に。が掲載されました。
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